韓国であったこと。
|
12月に入りもう回復したと思う。木村さんの壮絶な風邪だった。冗談ではなく、ソウルでどうなるのかと思うほど木村さんは疲労困憊していた。渡韓前の度重なる疲労の蓄積による疲れが、すべてのスケジュールを終えると同時に木村さんを襲った。 11月20日に宇都宮の講演を終え駆け足で成田から仁川国際空港へ。到着は夜中の12時を回る寸前、先に到着していた奥さんほかと合流。翌日は、講演の前にメトロというフリーペーパーの取材、光州から来た長年木村さんが指導してきた多くの人たちと昼食、1時間半の熱の入った講演のあと京畿道知事の金文洙さんとの会見でもみくちゃにされ、名誉市民の栄誉を得たが、カメラを前にしきりにポーズをとる次期大統領候補の金知事に振り回された。そのあと、全く無勉強の地元の記者に長々とくだらぬ質問を浴びせられて疲れ果てたようだ。 その夜の食事は、冷え取り健康法で有名な鄭さんの計らいで「チョウムチョロン(はじめてのよう)」という19.5度の焼酎を味わい韓国家庭料理に癒されたようだった。 翌日は、韓国の慶尚北道にあるリンゴの町聞慶市(ムンギョン)を訪問する。高速道路を2時間120キロで突っ走ってたどりついた。着くとすぐ市長の歓迎会。休まる間もなく本のサインなどをこなした。なんとホテルは温泉マーク付きのモーテル。ビジネスホテルのない地方はこれが普通のようで何とも異様。翌日の講演会は韓国の各地から集まったリンゴ農家への指導講演で木村さんも力が入った。水もなく2時間しゃべり続け、このころからだいぶ調子が悪くなったようだ。 質疑応答になって生産者がスライドの一部で気になったと手を挙げ、それはリンゴに袋がかぶせられていることに「自然栽培と言えるのか」と言い張るところ。木村さんは芯食い虫を防ぐために袋をかけていると説明した。「全部にかけるのか。それでも自然栽培なのか」。その生産者は得意気に語る。 木村さんは常日頃から自分の農業を自然農法ではなく「自然栽培」といっている。それは生産者が栽培して生活していけるように実利をあげられ、空理空論に終わらないということだ。疲れもあったか、「自然栽培ではないではないか」という生産者に対して珍しく木村さん声を荒げて言った。 「あなたたちは何を聞いているのですか。私は農薬も肥料も使わないと言っているでしょう。それが自然栽培です。机上の農法とは違うんです。栽培して生活していくために自然栽培はあるんです」 このあと質疑は打ち切られた。というのは光州でもそうだったが、彼らは自分たちの有機栽培で30年以上もリンゴやほかの作物を作ってきており、彼らの持論はそう簡単には改まらない。ますますエスカレートして収拾がつかなくなるのは目に見えているのだ。どんなに木村さんの本「奇跡のりんご」(翻訳され金英社=キミョンサから出版されノンフィクションでベストセラー)を読み感動しても、持論は捨てられないのだ。 木村さんは講演の冒頭にこんなことを語った。 「私はあなたたちに苦労と幸福をもたらすためにやってきました」と。キリスト教徒の多い土地柄、しゃれて言ったようだ。しかし、木村さんの自分がやってきた道を振り返ると、こう言うしかなかったのだろう。目と手を農薬と肥料代りに自然の中に没入して何年間も無収入でやっと「土」を作り上げたその過程は、いわば塗炭の苦しみのあとにもたらされる幸福の大きさというものだ。それをみんなに実践し達成してもらいたい、その一念が海外に出かけ空港から畑、終えるとまた畑から空港へとこの10年、身を削って指導に力を入れてきたのだ。講演のあとここでも「名誉市民」のような称号をいただいたが、名誉で癒される木村さんではないだろう。 講演の前に車で近くの名所を散策したが、岩がゴツゴツしている市の公園の丘に放置されたリンゴ園を見て、私にひとつ食べてみなさいと木村さんがいう。小さくて凍えた部分は腐っていたが食べるとそのリンゴは肥料、農薬から時間を隔てていただけに、リンゴの原点の抜けるような純粋さを秘めていた。「ここをこのリンゴの町の自然栽培の出発地にしたらいい。3年もしたらだれもが驚くシンボルになれる。きっとできる」。放置されていたこのリンゴ園が木村さんが来るのを待っていたかのよう。この言葉を真剣に受け取って、実行に移す人がいるだろうか。このあたりは黄色い土で家が作られ、都へ昔から科挙(国家試験)のために越える有名な峠だという。幾日もかかり途中で命を落とす人もいた。ペ・ヨンジュン氏が、風光明媚なこのあたりを気に入って彼の別荘もあるという土地柄だ。木村さんの千里眼は、こんなことも見通しての発言なのかもしれない。 帰りのバスで、木村さんはすでに体調を崩していた。寒気がしていた。取材、サイン、写真、講演、あいさつ、休まらぬ日々に体がもう悲鳴をあげていた。2時間以上の高速道路の岐路、疲れ果てやつれは一層にじみ出ていた。ソウルに戻り、金英社のお疲れさんの食事会で木村さんは、やっと重圧から解放されたように「終わってよかった」と繰り返した。福島→福井→宇都宮→韓国、いずれも強行軍でそれだけではない。畑は収穫期であった。畑を思うあせりもあったのではないか。夜中に発熱し、翌日は、大好きなコーヒーもタバコも食べ物を一切受けつけない。ひたすら寒気と発熱で金浦空港の待合室では悲壮感が漂うばかり。数時間の待ち時間。羽田に着いたときは安心したが、38・7度で呼び止められた。青森行きに乗り換えたが、奥さんの話では、再度ものすごい熱が出たという。青森空港では娘さんが車で迎えに来てやっと家にたどり着いた。どんなに大変だったか、奥様も心配し通しであったと思う。木村さん!あまりに我慢強すぎます。 のちにメールをいだたきました。「全快です。でも本当に苦しかった」。あまりに一生懸命やりすぎます、といっても、木村さんは手を緩めるひとではない。「今度は大丈夫です」。といっても心配だなあ。(これは12月に書いたものを再録したものです。写真を掲載しようとすると消えたり、いろいろあって) |
||











木村秋則さんを支え力強い味方であった下さんが11月6日午後3時15分に亡くなられた。鹿児島の茶の名門・下堂園の御曹司は、木村さんの自然栽培を世界に広めるために手足となって身を粉にして動いた。欧州で唯一有機のお茶の輸出が認められている下堂園さんは、木村さんをドイツに案内し、世界で一番厳しいといわれるシュタイナー農法の「デメター」ブランドを差配するピーター事務局長と引き合わせ「ぎゃふん」と言わせている。木村農法がすぐれて最先端であることを認めさせ、ピーターを日本に呼んで再認識させた。今後、有機の先進的なデメターの「認証システム」などを学ぶために、来春にも再び一緒に渡独すると、下さんは強い意志を示していた。「来年春ころには体調もよくなってるからさ」。木村さんにそう呼びかけて、家族のいる鹿児島に転院したのがついこの間のことだった。一度会えば100年の知己。あの人懐こいひげ面は、どこかに西郷さんの威厳を秘め、またヘミングウェーのような思索の人でもあったが、明るく人にやさしくだれからも好かれた。木村ファミリーにはなくてはならないパーソナリティーだろう。草笛光子さんらを連れて木村夫妻を驚かせたり、自分の体が悪いのに、「ひとにいうなよ」と、自らドライバーを買って出て、木村さんと講演の旅に出たりした。木村さんも下さんの病気のことが気がかりだが、「おれと一緒に動けば、病気のことも忘れるよ」と、行動をともにした。双方に心強い味方だった。
昨日、横浜マリンタワーの3階のスローフードディナー特設会場で木村さんの困窮の時代をよく知るレストラン山崎のオーナーシェフ・山崎隆さんのディナーを楽しませていただきました。あまりに豪華過ぎて「スローフード?」という感じにもなりましたが、木村ファンがたくさん集まって山崎さんも大張りきりで大盤振る舞いしたのだと思います。
上に鎮座ましますりんごは木村農園の紅玉。さっぱりしてしっかりして、まろやかなアイスクリームが添えてあって人気なのもわかる。 県外からも評判を聞いてやってくるそうです。
そこが「シェ・イグチ」というこだわりのフレンチレストラン。なんといってもランチでもディナーでも一日一組しかお客さんをとらない「完全予約制」。それだけではない。材料が野菜なら完全無農薬野菜しか使わない。また目玉の「りんごの冷製スープ」の評判を聞いてやってきたのだ。
ペントハウスをイメージしたテラスつきの開放的なダイニングで、快晴の天候のもと、一組だけの食事。ああ、なんと贅沢な。